だめだ。解らない事が多すぎます。外から取り入れた情報を一部で処理して、それを一望しうる見下す、高さが、距離が、視野が必要なのです。
ただ解るのは、そういった諸動作が、音とか文字、人と人の関係性とか、その他の外からの刺激、情報を確認することによって行われているのだということ。
例えば、今行ったのは「理性による感性の観察です」、「理性による感性の観察に気付くのはそれらの横に位置するもの、すなわち感性です。」「それに気付くのは更に上方に位置する理性です。」といったようにパターン化、階層化して地道に考えていく、最終的には理性側の能力が必要になるのでしょう。
でも、「『横に位置するのが感性、上に位置するのが理性。』はなんだか近い感じがします」、と感じるのはそれ感は性です。と感じるのは感性です。と感じるのは感性です。と書きかけて、感性で終結する位置も存在するのかも知れない、と書きかけて、理性にも感性にも不可侵の領域が、と書きかけてそれが理性であること、そして自分が何が何だかよくわからなくなっていることに気付く事が理性であること、縦の理性に横の感性、を斜めから観察するものが情報統合思念体に代表される、最終的な知性となりうる、すなわち最終的な知性とは自らに自らを確認することが可能な、双子のような鏡合わせのような、そういった構造をしているのだと推察されるのです。